だらだらといい加減に続く坂道を前に、私は偏屈な古書肆の顔を思い浮かべた。








月光蝶













中禅寺さんが居なくなってから何日が経つだろう。
















先日関口先生が旅行先で行方知れずになった。






それに触発されたかのように榎さんが


木場の旦那が












そして、みんな居なくなった。












和虎さんによるとまた何か大きな事件らしいけれど、そんなの私には関係ない。




ただ私の日常から、あの人たちがふつりと消えたのだ。










無性に哀しくなった。
















同じ様な日々をただ諾々と送り続けるだけで良かったのに。








私の日常は、壊れてしまつたのだ。




















「中禅寺さん」

















吐いた言葉は左右の土塀に消えた。








あの向こうは、


そうだお墓だ。









なんだ。私の周りは墓しか無いのか。


墓。墓墓、墓。







ならば彼らも。









ああ駄目だ。


違う違う。それではいけない。




そんな筈はない。













こんな坂、早く上らなければ。




そしてその上に居る彼に。












早く彼に。



















中禅寺さんに会いたい。

















彼に会わなければ私の非日常が日常へと摩り替わってしまう。




その前に。












駆け出す。


脚が縺れる。


うまく走れない。


ぐらり、と。









眩暈がした。



















くん。くん、大丈夫かね」













坂の中腹程で、私は痩せぎすで仏頂面の古本屋に抱えられていた。








「中禅寺、さ、ん」







「あんなに走ると倒れてしまうよ。


 此処は別名眩暈坂と云うからね」








君もせっかちだなあ。そんなに僕の所に来たかったのかい。









そう云って苦笑する中禅寺さんの顔が、歪んで見えなくなった。



ぽろぽろと涙が溢れる。






鳴咽を飲み込むことなど出来なかった。







私は中禅寺さんの着物を掴み、ただただしゃくり上げた。


彼は私の背と頭に手を添えてくれた。











「お、かえ、り、なさ、い」












ゆっくりと私を撫でてくれる細い手。


時代錯誤な和服。


古本と紙巻の匂い。










ああ、やっと、


帰ってきた。



















おかえりなさい。私の日常。



























「ただいま」









ただいま。僕の存在理由。























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結局甘いのか甘くないのか。

例え流されるだけだとしても、『日常』という言葉に甘んじていたいです。

2006.7.17