夏も終わりに近づく頃

私は京極堂に居た。



飛べない魚




真夏よりはやや衰えを見せ、しかし強烈に降り注ぐ太陽が埃っぽい古本屋の中を照らしていた。



今日は良い日だ。なんといっても榎さんが居ない。
昨日、嫌々引き受けた依頼人の事件を解決するため午前様だったのだ。
多分今も薔薇十字探偵社で惰眠を貧っているだろう。


元来静寂が好きな私は、榎さんの居ない静けさに満足し乍ら本を読んでいた。


隣では中禅寺さんが、こちらもやはり静かに読書をしている。

私達はちょうど反対方向を向いて座っているので、何を読んでいるかは判然としない。
しかしきっと私には一生読解不可能な難しい本なのだろう。




ちりん、と風鈴が鳴った。


にゃあ、と石榴も鳴いた。




「良い日ですね…」
本をあらかた読み終えてしまった私は、半ば独り言のように呟いた。


「そうだね」
珍しく古本屋の主人はそれに応答してくれた。
何時もは関口先生が何を言ってもだんまりを決め込んでいるのに。


私は驚いて振り返った。

しかしやはりこちらからでは主人の背しか見えない。
先程私の呟きに答えてくれたものの、相変わらず顔は本に向かっている。


意外と大きな背中だなと思った。







私は、この偏屈な古本屋の主人に焦がれている。




勿論彼は既婚者だし、私なんかとは雲泥の差もある綺麗な奥方もいる。




それでも、私は彼が愛おしいと思う。
別にどうなりたいという訳ではない。ただ愛しいのだ。
こうして一緒に本を読んだり、時には難しい講釈をうけたり、



それだけで良かった。


酷い焦燥感に苛まれた時もあったが、それも今ではさして気にはならなくなった。


また明日も京極堂に行けば良い。そうすれば彼に会える。

会っている間はそういう感情も忘れられる。そう思うようになった。





「どうしたんだい君。もうその本、読み終えてしまったかね?」


中禅寺さんを眺めつつ中禅寺さんの事を考えていたら、中禅寺さんによって現実に引き戻されてしまった。



「あ、はい。あの…これの続巻てありますか?」
私は手に持っていた本をひらひらさせて言った。


「あぁあるとも。少し待っていたまえ」
中禅寺さんはそう言うとぬうと立ち上がり後ろに山積みになっている本の束を眺め回した。

着流しの胸の辺りから手が出てきて顎を摩っている。


彼の癖なのだ。



「ほら、あったよ。君は勉強家だね。どこぞの小説家にも見習って頂きたいものだ」


手にした本を渡しながら中禅寺さんは軽く笑って言った。

どこぞの小説家と言われても、私には思い当たる人が一人しか居ない。


私が苦笑しながら有難うございますと言って本を受け取ると、彼はまたいつもの位置に座って本を読み始めた。

私も、続巻に目を通し始めた。




夏の一日が過ぎるのは早い。



もちろん日差しが傾くのは遅いのだが、私は何故だかいつもそう感じる。


今日もまた例外ではなくて、気がつけばもう太陽は完全に眩暈坂の下に沈んでいた。




幾分活字が見辛くなった本から顔を上げた中禅寺さんが不機嫌そうな顔のまま言った。



「あぁ、もうこんな時間か。随分と遅くなってしまったね。



 君、今日は泊まっていくと良い。」



「…え?」



「虎吉君には僕から伝えておこう。夕食は…蕎麦でもとろうか。僕が奢るよ。どうかね?」

「あ、ぇ、えぇと」






「それとも

 今から榎木津に電話して迎えをよこすかい?」





そう言って書痴の想い人はにやりと笑った。


私が騒々しい事を嫌うのは彼もよく知っている。



「い、いえ!お邪魔させていただきます!」



「うん。そうすると良い。
 さてと、それじゃあ出前を取ってこようかな。」


中禅寺さんは重たい腰をあげた。




ちりん、と風鈴が鳴った。


石榴は、もう何処かへ行ってしまった。





あぁ、今日は本当に良い日だ。








「…君も榎木津のなんぞの所に行くより僕の所に居る方が嬉しいだろう。」





「へ?今なんて…」



「いや、なんでもない。聞き流してくれ。」











もしかしたら、彼は何もかもお見通しなのかもしれない。


















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去り際シリーズ。

ずるい本屋は全てを把握していて尚誘惑するのです。

2006.1.14