笛の音が聞こえる。
高く、低く。
「帰ってたんですね伊佐間さん」
「久し振りちゃん」
雨のち雨のち雨
冬も終盤に差し掛かった頃、私は釣り堀屋の番人と久々に顔を逢わせた。
番人は飄々と私を迎え入れてくれた。
「今回は何処に行ってたんですか?」
「鎌倉の方」
「釣れましたか?」
「ううん」
彼―――伊佐間一成は極端に語彙の少ない独特の喋り方をする。
しかし削り取る言葉は全て本質的には必要の無いもので
結果、不思議と会話は成立してしまう。
私はそんな彼の喋り方が好きだった。
「そうですか…。それにしても伊佐間さん、急に居なくなっちゃうからびっくりしました」
「そう。ごめんね」
伊佐間さんの放浪癖は何時になったら治るのだろうと私は常々思う。
否、癖と付く限りそれは一生治らないものなのかもしれない。
貴方に焦がれている私の身にもなってほしいものだ。
彼は行き先を誰にも告げずにふらりと何処かへ行ってしまうから
私としては心配な事この上ない。
毎回、もう二度と会えないような気さえしてしまう。
そんな時は決まって時間給制労働先の益田さんに励まされる。
益田さんはけけけと笑い、「ちゃん、そんなにあの人が好きなんだね」と云う。
そう云われると否定は出来ないと思う。
私は部屋の角に置かれている珍妙なオブジェを無意味に眺めた。
「ごめんじゃ…済みませんよ」
「え?」
「どうして何も言わずに何処かへ行っちゃうんですか」
「ちゃん」
「私とても心細かったです。…伊佐間さんが居なかったから」
何を言っている。
「もうこんな念いは嫌です」
私は何を口走っている。
こんな事を云う為に此処へ来たのではない。
視界が霞んできた。
目には暖かいものが溜まっている。
私はなんとかそれを抑えこもうとする。
だが一度関を切って飛び出した言葉は意識の制御を拒んだ。
「伊佐間さん。私は」
そこまで云って私の声は鳴咽に変わった。
頬からは水が滴る。
それが涙と分かるまで時間はかからなかった。
「私。私は貴方を」
瞬間。
目の前がチャコールグレイに染まる。
伊佐間さんが正面から私の背に手を回したのだ。
伊佐間さんらしくない行動だなと、私は場違いに考えた。
「ありがとう」
耳許で囁くように、しかし明瞭と彼は云った。
「僕も」
ああ、こういう所はこの人らしいと私は思った。
また熱いものが込み上げてきた。
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「おぅ、釣り堀屋。居やがったのか」
「木場修」
「お前ぇここんとこ家空ける回数少なくなったな」
「そう」
「なんかあったのか」
「うん」
「だからそれは はい か いいえ かどっちの『うん』だよ」
「なんかあった」
「何があったんだ」
「秘密」
「なんでぇそりゃぁ」
「あ」
「なンだよ」
「木場修。帰って」
「な」
「来ちゃう」
「だから誰がだ」
「秘密」
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甘いのを目指してみました。
伊佐間さんは癒し系です。そして洞察力が鋭いです。これは理想。
2006.3.11